実績ストーリー


自動車車体整備現場の全国調査を実現

現場の声を聞く

01-1熊谷市のある車体整備工場。 整備士の話に真剣に耳を傾ける西田が、そこにいた。

「損保会社が提示する金額では、充分な修理ができない事があるんです」

話の内容は、事故車の修理代金に関すること。
損保会社の支払う代金と、実際の経費や整備士の仕事量とが、釣り合わないことが多いという、切実な訴えであった。

車の整備士は、車の安全を確保するため、必要と思われる整備の工程をおろそかにできない。その一方、少しでも修理を安くするため、値切りを要請する損保会社もある。

損保会社の要請を断れば、次から仕事は来ない。だから、無理をしてでも安い仕事を受け続ける――この悪循環が、整備業者と整備士の負担を増大させていた。
整備士自身の健康面や、車の安全面に影響を与えかねない状況が、そこにあった。

「何とかしなければ…」
窮状を訴える声を、西田は静かに、うなずきながら聞いていた。

実態を調査しろ!

02-12009年11月、西田は国会でこの問題を取り上げた。
「この問題に対する実態調査を開始すべきである」
と切り込む西田。
迫られた前原国土交通大臣は、「金融庁と協力して実態を調査し、結果を報告したい」と約束した。
その結果、2010年2月から、全国一斉の実態調査が始まったのである。
 

ある車体整備業者は言う。 「この業界に関する国会質問は、本当に画期的なことなんです。国会中継に拍手し、涙して喜ぶ者もいました」と。

埼玉県自動車車体整備協同組合理事長の福本光男理事長も、西田の誠実な仕事ぶりを高く評価している一人だ。
「何より現場第一で、私たちの町工場にも、どんどん足を運び、親身になって話を聞いてくれる。その普段から飾らない振る舞いが、どれだけ私たちの励みになっているか」

西田は語る。
「小さな町工場で、深夜まで黙々と働く父の背中を見て私は育ちました。『おやじの背中』が私の原点です。だから“まじめに働く人の努力が報われる社会を作りたい”と心から願うようになりました」

中小企業を救済

窮地に陥る企業

012004年、物流・流通加工業を営む企業「テスココンポ」(埼玉県行田市)に、西田まことの姿があった。長引く不況で業界全体が落ち込む中、同社は独自の発想とノウハウで着実な発展を続けていた。
だが、2003年に取引先の銀行が経営破綻。国の管理のもと債権の取り立てが強化された。テスココンポは融資の見直しを迫られ、30年で返済する予定の借金を15年で返済することになり、資金繰りが窮地におちいっていた。

経営が順調な中小企業の破綻を避けるために、公的機関のもと、金融機関が貸し付けている借金の一部を放棄する、債権放棄による再生案が練られた。4つある取引金融機関のうち、3つは債権放棄を快諾。しかし、残る1つ、政府系金融機関の「中小企業金融公庫」だけが、首をたてに振らない。

「これは1社に限った問題ではない。多くの中小企業が悩んでいる課題のはずだ。それを放置するわけにはいかない!」
西田は、すぐに中小公庫を訪れ、中小企業の実情を率直に訴えた。
「そもそも中小企業を再生しようというのが政府の方針。政府系金融機関である中小公庫こそ、まず率先して債権を放棄すべきではないか」
しかし中小公庫側も譲らない。「債権を放棄する義務はない」と。

国会で直談判

この事態を打開するため、西田は中小企業金融公庫の総裁に、国会の場で直談判することを決意。総裁に対し西田は、現場の声を紹介しながら、 政府系金融機関でありながら冷たく突き放すような中小公庫の姿勢を糾弾した。呼び出された総裁は「積極的に対応するよう全店に指示」と答えるとともに、 「これからもこの問題を、さらにいっそう進めていきたい」とこれまでの姿勢を改め、中小企業再生に向けた努力を行うことを約した。

この質問が大きなきっかけとなり、中小公庫が企業再生のために債権の一部を放棄するケースが5年で約5倍に増加。全国の多くの中小企業が救われたのである。

窮地から抜け出したテスココンポの加藤社長は語る。
「我々の思いや、現場で実際に起きていることが、本当に国会に届くものなのかと、大変驚きました」。

「預金者保護法」を成立

消えた預金

012004年、キャッシュカードの偽造・盗難や、暗証番号などの情報を盗み出す「スキミング」の被害が相次ぎ、大きな社会問題となっていた。

ある女性の場合。キャッシュカードの盗難に気付き、慌てて金融機関のATMで残高を確認すると、数百万あった残金がゼロに。窓口に問い合わせると、「全額、引き出されていますね」との返事。頭の中がパニックになった女性は「では、どうしたら・・・」と聞くと「警察に行っていただけますか?」

警察で受けた説明はこうだった。
「あなたが盗まれたのはキャッシュカード1枚。現金を引き出されたのは銀行。つまり、被害者は銀行になってしまうんですよ」

「誰も守ってくれない」――こうした声が各地で上がっていた。
被害者の一人である中林由美江さんは、被害者の集いである「ひまわり草の会」を結成。救済を求める署名運動を始めるも、一向に状況は変わらなかった。
ちょうどその頃、西田まことを中心とした公明党のプロジェクトチームが、被害の実態調査に乗り出していた。

自ら法律をつくる

02「被害に遭われた方の生の声をお聞きしたいんです」 初めて聞く西田の声に、中林さんは驚いた。国会議員から突然、しかも直接電話がかかってくることなど、想像もしていなかったからだ。しかし、窮地に陥っていた中林さんにとって、わずかばかりの希望が開けた瞬間だった。

西田は「ひまわり草の会」の集いに出席。
切々と窮状を訴える人々の声に胸が締め付けられた。
「預金は一人一人の汗と涙の結晶。それが補償されなければ、あまりにも理不尽だ。これこそ、政治が解決しなきゃいけない!」

即座に、監督官庁である金融庁に出向き、被害者救済を訴えた。
だが、金融庁の腰は重かった。
涙ながらに訴える被害者の姿が、まぶたから離れない西田は決断する。「国が動かないならば、被害者を救済するための法律を自分たちの手で作るしかない!」

立法に向けた作業を進める西田たちの動きを、けん制するかのように、金融機関側から、「法制化を再考してもらえないか」などの申し入れも相次いだ。しかし、西田はこれをかたくなに固辞し、立法化を急いだ。

2005年6月21日、西田が中心となって作成した法案は国会に提出されたものの、その当時、郵政民営化法案の賛否をめぐって国会は解散含みという緊迫した政局に。「早くしなければ解散に伴い、せっかくの法案が廃案となってしまう」。タイムリミットは迫っていた。“被害者を一刻も早く救いたい”。その思いが西田たちを突き動かしていた。

そして、8月3日、西田の必死の努力が実り、預金者保護法が成立。被害は原則、金融機関が被害を補償することに決まった。それは、解散の5日前であった。

「ひまわり草の会」の中林さんは、しみじみと語る。
「一国民の小さな声が、本当に国会に届けられ、法律ができて世の中が実際に動くということを、そして、一人の国会議員が、こんなにも働いてくれるということを、私は西田議員と接して、はじめて知ることができたのです」と。

「改正中国残留邦人支援法」を制定

母国到着の喜びもつかの間・・・

01中国東北部(旧満州地区)――。
戦前、戦中と、国策で多くの日本人が渡った。
だが、終戦の混乱で、その一部は肉親と生き別れ、 中国人の妻や孤児として、やむなく現地に残った。
「中国残留邦人」の方々である。

1975年、孤児の肉親捜しが本格化。
訪日調査が81年からおこなわれ、 ついに、孤児たちの悲願であった帰国は実現した。
しかし――。

喜びもつかの間だった。
言葉が通じない。仕事をもらえない。
中国残留邦人は高齢になってからの帰国だったために、中国残留邦人の多くが、厳しい生活を強いられることになる。
唯一の支援策と言っていい生活保護についても、制約が多かった。

新たな法で守るしかない!

02西田はこの問題を知るや、残留邦人帰国者の方々と懇談会を重ね、 その窮状ぶりに耳を傾けた。
「生活保護とは別枠で、新たな生活支援給付を創設すべきだ」
西田は議員立法に取り組み始めた。

しかし、この動きに激しく抵抗したのは厚労省だった。
「生活保護と別の体系で、支援策を作るのは好ましくない」
「中国だけではない。シベリアからの帰国者や、フィリピンからの入国者もいるのに、どうするのか」

しかし、西田は引かなかった。できない理由をあげれば、きりがない。
大事なことは、現実に困っている人がいるということだ。何としても新たな支援策を成立させなければならない。

2007年11月、西田は国の抵抗を押し切り、 「改正中国残留邦人支援法」を成立させる。

これにより、単身世帯で月額最大8万円が支給され、さらに条件付きながら住宅費や医療費も支援されることになった。
また、日本語の不自由な帰国者のために、外国語が通じる医療機関にはフラッグを立てるよう医療法を改正。残留邦人帰国者のための介護施設も設立し、 安心して生活ができるようにと、あらゆる手を尽くした。

残留邦人帰国者らでつくる「中国帰国者東京連絡会」は、西田の尽力に対して、「感謝状」を送っている。

わが町を元気に!埼玉の実績 ~水害対策~

襲い来る水の恐怖・・・

01八潮市での国政報告会。
一人の婦人が満面の笑みで話しかけてきた。
「西田さん、よかったです。ようやく河川敷工事が始まります!」
西田は思わず、表情をほころばせた。

ここ数年、豪雨による水害が全国各地で多発。
埼玉県東部を流れる中川も例外ではなかった。

2004年10月。
台風22号の影響で、中川の水位が急上昇。
八潮市役所から、流域に当たる八条・入谷地区に対し、 堤防決壊の恐れがあるとして避難命令が発せられたほどだった。
幸い、大きな被害は出なかったものの、 住民たちの不安は高まっていた。

その声を聞きつけた西田は、さっそく住民と対話。
「敷地境界内まで水が上がることがしばしばです。
台風が来るたびに不安で仕方がありません」
との切実な訴えに、西田は深くうなずき、そして即、行動に移った。

不安を希望に変える

02すぐに国交省に談判。
国交省の対応も素早く、地元自治体への説明会を経て、 住民の移転と、河川敷工事が開始。
この工事が、数十年来、不安を抱えていた地元住民にとっての、 新しい希望の第一歩となった。

西田はさらに、流域上流から河口地域まで広範囲に影響を及ぼす、利根川の堤防強化事業の推進にも力を注いでいる。

この事業の重要地域である、 栗橋町長の斉藤和夫町長は語る。
「数多くの国会質問で取り上げていただいた一回一回が、当事者にとって大きな勇気と希望になってきたというのが偽らざる事実」と。

水害におびえる住民の皆さんの不安解消に全力を尽くす。
西田は現場第一主義の姿勢で、今日も埼玉を走る。

わが町を元気に!埼玉の実績 ~防犯対策~

空き交番ゼロ作戦の展開

012005年当時、全国的に「空き交番」が問題となっていた。
警官を配置せず、警察署への直通電話機だけを設置しただけの 「空き交番」は、全国で1925カ所にのぼっていた。

危険に際し、交番に逃げ込んでも誰もいないというのでは、不安で仕方ない。 住民から非難の声があがっていた。

しかもその年、警察官1人あたりの住民を守る人数(人口負担率)が 全国ワースト1位となったのは埼玉県だった。

ワースト1位からベスト3位に!

西田はこの衝撃的なニュースを真正面から受け止め、
「安心できる埼玉にしなくては」と
行動を開始。

すぐに県内の「空き交番の総点検」を開始。
さらに「交番こそが地域の防犯拠点」と重視し、 「空き交番ゼロ作戦」を掲げ、 予算の確保と警官の増員へと動いた。

それから2年経った2007年4月。
警察庁は全国の「空き交番」がゼロになったと発表。
西田は、“まず一歩前進”と胸をなでおろした。

また、埼玉県における警官の人口負担率も、2001年度から2010年度までの10年間で、全国ワースト1位から一挙に、ベスト3位へと向上した。

「困ったよ、おまわりさん」――
交番に警官がいる。今では当たり前の光景。
西田は決意する。
これからも、安心して生活できる埼玉にしていこうと。

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