西田まことプロフィール
公明党幹事長、党税制調査会会長、同埼玉県本部代表。埼玉育ち、妻、長男、長女の4人家族。慶應義塾高・大卒。元「週刊東洋経済」副編集長。2004年に参議院初当選。参議院3期。預金者保護法、東日本大震災で被災した中小企業の二重ローン救済法など議員立法多数。経済問題は得意分野。中国留学経験あり。59歳。
西田まこと
家族 | 妻、一男一女の四人家族 |
住所 | 埼玉県所沢市在住 |
スポーツ | 剣道、バドミントン |
好きな言葉 | 愚直に生きる |
好きな本 | 『夜と霧』『代表的日本人』 |
長所 | ねばり強い |
著書 | 『日本元気宣言』『人民元・日本侵食』『まことの「底力」宣言』『日本再生へ!確かな実力(ちから)』 |
西田さんに期待します
軽減税率成功の土台には、政治家・西田まことさんのヒューマニズム(人間主義)に基づく優れた人間性が脈打っているのです。
倫理面にすぐれた人間性、すぐれた知性、「大衆とともに」の精神、西田まことさんには国会議員に求められる三つの条件をすべて兼ね備えています。大衆とともに闘う政治家西田まことさんの戦いを、私は心から支持し全力で応援します。
「大衆とともに」という精神に徹し、西田さんの目線は生活者と同じ方向を向いているのです。
大衆のためという確かな価値観を持つ政党・政治家として、埼玉に、日本に、これからの時代の新しい価値を創造していく役割を、公明党と西田さんには期待します。
私も推薦します
浅野順次
公益社団法人全国出版協会理事長
元東洋経済新報社会長
中田俊也
プラチナ萬年筆株式会社代表取締役
小河光治
公益財団法人あすのば代表理事
木村謙一
西田まことを囲む会代表理事
(株式会社高麗川カントリークラブ取締役社長)
西田まことの経歴
年月 | 内容 |
---|---|
昭和37年 8月 | 東京都田無市(現・西東京市)生まれ |
昭和56年 3月 | 慶應義塾高校 卒業 |
昭和56年 4月 | 慶應義塾大学 経済学部 入学 |
昭和57年 8月 | 中国・北京語言大学へ留学 |
昭和61年 3月 | 慶應義塾大学 経済学部 卒 |
昭和61年 4月 | (株)東洋経済新報社に入社 |
平成8年 | 『週刊 東洋経済』副編集長 |
平成15年 7月 | 公明党青年局次長 |
平成16年 7月 | 参議院選挙 埼玉選挙区で初当選 |
平成17年 | 党国際局次長(1月)、党労働局次長(12月) |
平成18年 | 党団体局長(5月)、党副幹事長、党NPO局次長(10月) |
平成19年 | 党宣伝局長(2月)、党中央規律委員(6月)、党広報局長(9月) |
平成20年 | 党中央幹事、党関東方面協議会副議長(9月) |
平成22年 7月 | 参議院選挙 埼玉選挙区で2期目の当選 |
平成24年 10月 | 公明党参議院国会対策委員長 |
平成25年 8月 | 公明党参議院幹事長 |
平成28年 7月 | 参議院選挙 埼玉選挙区で3期目の当選 |
平成30年 10月 | 公明党税制調査会会長 |
令和元年 9月 | 公明党参議院会長 |
令和 3年 11月 | 公明党関東方面本部長 |
令和 4年 7月 令和 6年 9月 | 参議院選挙 埼玉選挙区で4期目の当選 公明党幹事長 |
西田まことの現在
各種委員会 | 行政監視委員会理事 憲法審査会幹事 国土交通委員会委員 政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員会委員 |
党役職 | 幹事長、税制調査会長 関東方面本部長、埼玉県本部代表 外交安全保障調査会長代理 憲法調査会 副会長、経済再生調査会 副会長 行政改革推進本部 副本部長 |
その他 | 埼玉県自動車車体整備協同組合政治連盟 顧問 日本社会福祉愛犬協会 名誉会長 |
西田まことの生い立ち
東京都田無市(現・西東京市)生まれ
小さなプラスチック加工工場を営む父。
レコード針の部品作りで経営は順調でした。
母は病弱で入退院を繰り返していました。
私は幼いながらも母を喜ばせようと勉強を頑張っていました。
毎日懸命に働いていた父の背中がとても印象的で、 今でも町工場を視察すると懐かしく思い出されます。
小学校時代に習った剣道では、ネバリ強さを学びました。
慶應義塾高校 入学
高校に入った頃、「CD」がブームになり、一気に父の工場の経営が傾きました。「高校をやめてもらうかも…」父に言われた厳しい現実。零細企業の辛さ・苦しさを肌身で感じました。
勉強は得意な方で、ありがたくも奨学金をいただき、高校を卒業することができました。バドミントン部ではキャプテン。
県大会ではベスト8まで行きました。家業を手伝いながら、勉強とスポーツに打ち込んだ3年間でした。
慶應義塾大学 経済学部 入学
大学でも奨学金を借りられることになり、慶応義塾大学の経済学部へ。大学時代の最大の夢。それは中国への留学でした。
でも、お金はありません。
この時、お世話になった教授の援助によって無事に留学資金を確保できました。
今でも本当に感謝しています。
中国・北京へ留学
私の中国へのあこがれは母の影響。旧満州に育った母が、敗戦後、中国の人たちに助けられたことへの感謝を何度も語っていて…。それがいつしか「日本と中国を結ぶ、大きな人間になりたい」という私の夢になっていました。
念願の中国・北京語言大学への留学。4畳半に2人住まいの「節約留学」の中で、懸命に勉強。
新しい中国の発展の勢いに驚いたことを覚えています。
(株)東洋経済新報社に入社
卒業後、ジャーナリズムの世界へ!
とにかく現場で声を聞かなければ、真実は見えてこない。
平成3年に、中小・ベンチャー企業向けの月刊誌の創刊に携わったことをきっかけに、5年間で650人の経営者を取材。
百聞は一見にしかず。経営の現場を実際に肌で感じたことがその後の仕事にも大きなプラスになりました。
『週刊 東洋経済』副編集長に
そして『週刊 東洋経済』の副編集長に。アジア経済の担当として、中国、香港、タイ、アメリカなどに足を運びました。
平成10年、アジア通貨危機後の日本と中国を描いた『人民元・日本侵食』(二見書房)を執筆。
中国の発展を いち早く紹介したことが注目され、テレビ番組『サンデープロジェクト』 に出演するようになったのもこの頃です。
『週刊 東洋経済』「巻頭特集」担当デスクに
ジャーナリストとして最も心がけたのは「読者を元気にする」
「井の中の蛙にならぬよう世界情勢を伝える」そして「経済の枠を超えた様々な話題を提供する」ことでした。
こうした理念が奏功したのか、私が企画した「巻頭特集」が人気を得て、『週刊 東洋経済』過去最高部数を更新できたのもいい思い出です。
参議院選挙において初当選
ジャーナリスト生活を通して痛感したのが「真面目に働く人が報われる社会にしたい」との思いでした。
日本経済の分岐点である21世紀に、論じるだけでなく、自ら実行すべきだ、と思い立ち、参議院議員選挙への立候補を決意。
本当に多くの方々の熱い応援をいただき、初当選させていただきました。